スタッフルーム
中原雄一( 21/10/20 Wed 22:43 更新)

鹿児島玉龍高等学校空手道部

  • こちらで学んだ流派は「剛柔流空手道」でした。東恩納寛量先生を流祖、宮城長順先生を開祖としていました。karate1.jpg (8427 バイト)
  • 師範は学校の専任の先生ではなく、町道場の先生が来られていらっしゃいました。実力も高く、人格的にも尊敬されていらっしゃる先生でした。
  • 鹿児島玉龍高等学校の空手道部は、当時鹿児島では有数の強豪でした。4年連続全国大会に出場した実績がありますが、私も2年生、3年生のとき、3年目、4年目の全国大会に出場することができました。まだインターハイの正式種目には採用されていない時代でしたが。
  • しかし、空手というのはとてもマイナーなスポーツです。野球部が県大会の準決勝に進んだだけで全校応援となるのに(私も臨時応援団に配属され、長ランを着た覚えがあります)、空手は全国大会に4年連続出場していても、何の表彰も応援もありませんでしたから。空手道場(幽霊屋敷)は私が入学する前年の末に取り壊され、もっぱら青空道場でした。
  • その青空道場は、由緒ある福昌寺の境内にありました。管理人さんに許可をとって特別に使用させていただいていたのですが、いつも清掃を行って帰るので歓迎されていたかもしれません。桜島の灰で真っ黒な地面の上を、毎日裸足で練習していたのです。夏は足の裏が火傷をしてしまい、大変でした。上の写真でもテーピングを巻いていますが、実は足の裏の皮が大きくはげてしまっていたのです。痛々しい話ですが、踵の皮って、数ミリもの厚さがあるんですね。これがはげてしまうと、段差が大きくできて、患部が「ボコッ」とへこんだ感じになってしまいます。正直、このようなテーピングではあまり役に立ちません。
  • 雨の日は校舎の渡り廊下で練習することが多かったと記憶しています。
  • このような環境下にありながらも、強豪であったのは、師範の指導のみならず、各部員の努力が並外れていたためだと思います。
  • それにしても武道部というものは封建的なものです。師範ならまだしも、わずか1年先に空手をはじめただけで、とても威張っているという先輩に出くわす経験もありました。写真でみても分かるように、体が小さく体重の軽い私はいつもターゲットになり、しょっちゅう顔が変形していたものです。勉強を除いて、あれほどいやな経験はなかったのですが、おかげでその後は結構怖いもの知らずで通りました(彼が引退したあとも、きっちり組み手でお返ししてあげました)。今ではよくぞ鍛えてくださったと感謝しています。あの体験がなければ今の私はなかったでしょう。
  • さて、この空手をやっていたことが幸いし、高校3年生の時に、学校の文化祭で催す「8mmフィルム映画」の主演を務めたことがあります。
  • 『奥吉野忍法帳』という題名でした。彼氏を殺された女の子と奥吉野から出てきた忍者が知り合い、ちょっとした淡い恋に陥るという、結構恥ずかしいストーリーでしたが、アクションシーンもあり、とても楽しんで参加することができました。
  • 相手役の女の子はとてもキュートな方でした。今はどうされているのでしょうか?
  • このフィルムは本当はアクション シーンがかなりあったのですが、コダックのフィルムを鹿児島で現像できず東京に送ったところ所在不明になったということでした。空手道部の青空道場でもあった福昌寺が主なロケ現場となっており、かなり高いところから飛び下りるなどのショットがあったはず。もちろんスタントマンなどいるわけがありません。残念です。
  • 結局冨士フィルムで取ったフィルムをつなぎ合わせて何とかストーリーにしたのが最終的な『奥吉野忍法帳』になりました。
  • そういえば、アクション シーンの撮影では空手部で私が一番仲がよかった後輩に相手役を演じてもらいました。私はブルース リーの大ファンでしたが、彼はジャッキー チェンに狂っていました。
  • もし、このページを見ることがあったら、ぜひご連絡ください。確か『奥吉野忍法帳』以外に、テストでアクション シーンを一緒に撮影したような記憶があります。もしそれを所持していたらぜひ見たいものです。
  • ところで『奥吉野忍法帳』のフィルムは現存します。昨年8mm映写機を中古で購入し、久々に再生してみたのですが、とても恥ずかしかったです。家内も大爆笑でした。
  • また、後年クラスの同窓会の幹事の方に、このフィルムを所持していたら貸して欲しい、と頼まれ、その後時間をかけて発見したのですが、送り先・連絡先が分からなくなってしまいました。
  • もしこのページをごらんになったらぜひ、ご連絡ください。