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中原雄一( 21/10/20 Wed 22:43 更新)

Yさんへ。

正直に述べると、まだそのショックから抜けきれないでいます。

2002年9月22日、フィットネスクラブで知り合い、ずっとよくしていただいていた人生の先輩であり、友人であるYさんが永眠されました。Yさんと最後の対面をして3週間近くが経過した今もなお、信じられない気持ちがどこかにあるのです。

亡くなられてから現在まで、私自身強いショックを受けたため、心身の状態があまりすぐれません。しかし、私がこんな状態にあっては、Yさんに申し訳ありません。事実をしっかり受け止め、前向きに生きていく決意をしなければならないと思いました。

私とYさんが知り合ったのは1992年の春のことでした。当時所属したスポーツクラブに入社して1年も経過していない私は、そのクラブでは従来行われていなかった、アスレチックジム独自のイベントを企画していました。減量コースと筋力トレーニングコースを期間限定で行うものだったのですが、オープン時より所属していたオリジナルメンバーからは反発を受けていました。私を採用してくれた上司でも、「健康増進施設をうたうこのクラブの色に合わないのでは」「失敗すると思う」とさんざん忠告を受けたものです。私も自信があったとはいえ「今回は失敗できないぞ」という気持ちが強かったことを記憶しています。

結果的に、このイベントはクラブ始まって以来の大成功を収め、翌年の続編、その後の本格的有料コースにもつながっていく結果となりました。

その第1回目から参加いただいたのがYさんでした。女性のほとんどが減量コースのほうに参加されたのに対し、Yさんは筋力トレーニングコースを選択されたのです。このときから、Yさんとそのご主人とのつきあいがスタートしました。

Yさんはすごくきれいな方で、もともとスタイルも抜群でしたし、筋肉もシャープにとぎすまされている印象がありました。そのイベントには私の家内も参加していましたが、2人はジムの看板娘になってくれました。当時、ジムの筋力トレーニングプログラムは女性には取っつきにくい存在でしたが、Yさんが積極的に参加してくださったおかげで、徐々にイメージが変わってきました。92年の夏には、スポーツクラブのイベントで、現役のボディビル選手だったスタッフの指導で、クラブ内のボディビルショーを行い、これが非常に盛り上がりました。比較的平均年齢が高かったクラブでしたから、女性のボディビルなど、見たことがない人が多かったと思われ、大きなインパクトを残したイベントとなったのです。

これを契機にYさんも家内も、ボディビルに興味を持ち始めました。家内は、92年、93年の東京都クラス別ボディビルディング選手権大会に出場しましたが、いずれも玉砕。Yさんは93年の新人戦にターゲットを絞りました。初めてだったし、準備期間も短かったのですが、持ち前の負けん気でなんと3位に入賞してしまいました。これは大変なことです。食べたいものも食べられず、皮一枚に近いところまで減量しなければならないのですから。家内もこれに刺激され、Yさんをお手本にして、その翌年に同じ大会で4位に入賞しました。

93年1月に、私と家内はハワイで結婚しました。ハワイがいい、と勧めてくれたのはYさんとご主人でした。お二人もその7年ほど前に、ハワイで結婚式を挙げられていたのです。そこで、Yさんとご主人、ご主人と中がよかった会員さんとスケジュールを合わせて、ハワイに向かいました。

結婚式当日は、いろいろと事情があって、Yさんたちは式には間に合わなかったのですが、ホテルで家内とあって涙されたのを覚えています。その後、みんなで、船上パーティに参加したり、Yさんご夫婦のおすすめの店、日本人が行かないような店などを案内していただいて、楽しい1日となりました。最後に行った、倉庫街のようなところにあったWorld Gymに行ったときは、ちょっとビビりましたけどね。

その後もYさんにはクラブのイベントにたくさん協力していただけました。94年のスポーツクラブのクリスマスショーで、2人は再び舞台で競演することになりました。92年の夏のイベントと比較して、2人とも相当に洗練されていた印象がありました。

95年に、私に長男が誕生したとき、お祝いを持って駆けつけてくれました。子供は好きなようで、アフリカの子供たちにもご夫婦で寄付されていたのを覚えています。

96年には、クリスマスパーティで、全く趣向を変えたイベントにも挑戦していただきました。翌年から、格闘技エクササイズを実施する計画を私が持っていたこともあり、それをお披露目するものでした。Yさんはとても舞台映えをする人だったので、ショーの司会とデモンストレーションを行っていただくことにしましたが、結果として大成功。97年には、コースに参加していただいた以外に、トゥナイト2の取材にも一緒に出ていただきました。また、97年にICOを開設した際も、いくつかの写真をご提供いただいていますね。

98年に私がクラブを去った後にも、お互いに行ったり来たりしていました。99年に、元気だったYさんがご病気をわずらわれました。しかし、すぐに元気になり、私たちは安心していたのですが、実際にはご本人は心身共に大変な状態であったようです。そして、今年の9月22日まで、闘病され、そして帰らぬ人となってしまいました。最後の最後まで、出された食事に口を付けるようにして、戦っていたそうです。

Yさん。私たちにたくさんの思い出をありがとう。あなたのことは忘れません。あなたの思い出と遺志を継承して、人生を歩んでいきます。

安らかにお眠りください。

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